中島飛行機株式会社の歴史!スバル、プリンス誕生の経緯!
更新日:2024年11月23日
中島飛行機株式会社とは?
中島飛行機株式会社とは、中島知久平(なかじまちくへい)が設立した軍用飛行機のメーカーで、ゼロ戦などの戦闘機を作っていました。戦時中、中島飛行機武蔵製作所はアメリカ軍の第一標的となり、9回の爆撃で壊滅状態となりました。
敗戦すると会社は企業解体を余儀なくされます。そして、その中島飛行機の優秀なエンジニア達が、後に日本の自動車産業を発展させていくことになります。戦争という不幸な時代に養われた技術ですが、戦争が終結すると平和のために貢献する技術となっていきました。
中島飛行機をルーツとする技術者達が枝分かれしてできた自動車会社が、日本の自動車技術を発展させ、今日の自動車産業が確立したと言っても過言ではないでしょう。
中島飛行機の創設者は海軍機関大尉中島知久平
海軍の大尉であった中島知久平は、中島飛行機の創設者です。中島知久平は、群馬県の農家の長男として明治17年に生まれました。16歳で家出同然の上京をして、その後、苦労のすえ海軍兵学校機関科に入学します。
海軍兵学校を卒業すると海軍に入隊し、その後は飛行機と飛行船の勉強をするため、海軍大学校選科に入学しました。
大学を卒業するとアメリカに渡り飛行機のライセンス取り、帰国すると大正6年に飛行機の研究所を立ち上げ、休職中であった海軍を正式に退官します。
昭和5年に衆議院議員に初当選し、翌6年には弟に中島飛行機製作所を譲って退職しました。昭和20年の終戦を迎えると、GHQにA級戦犯とされましたが、病気であったために中島飛行機三鷹研究所内にて自宅拘禁(こうきん)となりました。
昭和22年にはA級戦犯を解除されましたが、昭和24年10月29日、三鷹研究所内の泰山荘にて脳出血のため65歳で他界しました。
飛行機研究所が中島飛行機の原点
中島飛行機の原点となった飛行機研究所では、苦労のすえに120馬力エンジンを搭載した中島式四型を作りました。その後も、改良した中島式五型の量産に成功し、中島飛行機は日本最大の民間飛行機メーカーとなりました。
日本の軍事力を支えていた中島飛行機でしたが、各地の工場はアメリカ軍の攻撃によって焼け落ちてしまいました。太平洋戦争に負けた日本は、飛行機の製造ができないように、GHQ(マッカーサーを最高司令官とする連合国総司令部)によって12社に分解されました。
中島飛行機の優秀なエンジニア達は、飛行機メーカーから自動車メーカーなどに転身していきます。現在残っているのは、中島飛行機の直系である富士重工業(スバル)と、中島飛行機を取り込んだ日産自動車の2社です。
日本飛行機製作所
中島知久平が海軍を正式に退官してから設立した飛行機研究所は、初めは中島知久平1人でしたが、後に海軍の盟友や技術者が集い、使用人含め9名となり、大正7年には川西清兵衛が経営に加わり、日本飛行機製作所と名称を変えます。大正6年に飛行機研究所を作ってから翌年には日本飛行機製作所と会社らしい商号となりました。
川西清兵衛が経営に加わった時には、群馬県の養蚕小屋にあった飛行機研究所は、同じ群馬県内に移転していました。
大正8年に、陸軍から20機を受注しますが、その後、中島知久平と出資者の川西清兵衛の間でトラブルが発生し、一旦は収まりましたが、結局、川西清兵衛は日本飛行機製作所を去ることになります。
中島飛行機製作所
川西清兵衛から所長辞退か工場買取りかを迫られた中島知久平は、会社を買取り川西清兵衛との提携を解消しました。
日本飛行機製作所は、川西清兵衛が去ってから、中島飛行機製作所と社名を変更しました。
経営者としての川西側の考えと技術者としての中島側の考えには、根本的な違いあり相当揉めたと言います。中島を辞めさせたかった川西は、どうせ買い取るお金などないとおもっていましたが、中島知久平が会社を買い取るという結果になりました。
そして、井上幾太郎陸軍少将より仲介を受けて三井物産と提携し、中島飛行機製作所となりました。大正9年には、陸軍から70機と海軍から30機という大量の飛行機生産を受注しています。
大正14年、東京府豊多摩郡に東京工場ができ、昭和 6年になると資本金600万円で中島飛行機株式会社となりました。その後の経緯は、昭和8年の増資で資本金900万円となり、昭和9年4月には社章もできました。
1919年民間製作最初の軍用機
中島飛行機の原点である飛行機研究所は、1919年(大正8年)2月に、苦労や失敗を何度も重ね、中島式四型を完成させました。四型の華々しい完成で、同年の4月には陸軍から五型20機を受注しています。それが、民間制作では最初の軍用飛行機となりました。
日本最大級の軍用機製造メーカー
飛行機研究所から始まった中島飛行機製作所は、日本最大級の軍用機製造メーカーになりました。
第二次世界大戦が勃発するに至る体制の元で、国からの資金調達もあり、日本最大級の軍用機製造メーカーへと急速な発展を遂げました。陸軍機・海軍機は百種類以上約2万4千機の機体を生産し、発動機に至っては約4万4千を生産しました。
ちなみに、中島飛行機製作所と並び、戦争を期に発展した日本の企業には三菱重工があります。
1946年占領軍の財閥解体方針
日本がアメリカとの戦争に負けると、財閥解体(ざいばつかいたい)が行われました。これは国際的な政治方針で、巨大企業(財閥)が解体されることです。
終戦の1945年(昭和20年)より1952年にかけて、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、日本の軍国主義を壊し、軍用機が二度と生産できないようにするために行い、中島飛行機製作所もGHQの命令で、12社に財閥解体されてしまいました。
解体された12社は独立して、富士重工業・富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車両・東京富士産業・富士精密工業・富士機器・愛知富士産業・富士機械工業・栃木富士産業・岩手富士産業となりました。
富士重工業・スバル
中島飛行機(敗戦後は富士産業と社名変更)を解体してできた、東京富士産業・富士工業・富士自動車工業・大宮冨士工業・宇都宮車両の5社は、後に合併して富士重工業(SUBARU)となりました。
現在の富士重工業(SUBARU)の前進となった5社について、詳しく見てみましょう。
東京富士産業(株)
東京富士産業は、現在の富士重工業(スバル)の再スタートとなる5つの会社のうちの一つです。東京富士産業は、富士産業の旧東京本社で、代表者は藤生富三が務めました。
解体される前の中島飛行機は、敗戦後に富士産業と社名変更しましたが、その社員数は25万人にもなっていました。中島知久平が1人で立ち上げ、当初9名からの町工場は、軍事下において急速な発展を遂げていました。
しかし、昭和20年8月15日に敗戦によりGHQの命令で解体されると、富士産業の本社は独立して東京富士産業となりました。
富士工業(株)
富士工業も、現在の富士重工業(スバル)の再スタートとなる5つの会社のうちの一つです。
富士工業は、富士産業の旧太田工場・旧三鷹工場で、代表者は佐久間次郎が務めました。スクーターのラビットを量産して、ラビットのヒットにより経営を安定させました。
富士自動車工業(株)
富士自動車工業も、現在の富士重工業(スバル)の再スタートとなる5つの会社のうちの一つです。
富士自動車工業は、富士産業の旧伊勢崎工場で、代表者は松林敏夫が務めました。技術者の百瀬晋六は、その技術を使いバスを作りました。
大宮冨士工業(株)
大宮冨士工業も、現在の富士重工業(スバル)の再スタートとなる5つの会社のうちの一つです。
大宮富士工業は、富士産業の旧大宮工場で、代表者は中尾晃が務めました。
宇都宮車両(株)
宇都宮車両も、現在の富士重工業(スバル)の再スタートとなる5つの会社のうちの一つです。
宇都宮車両は、富士産業の旧宇都宮工場で、代表者は浜田昇が務めました。
ちなみにスバルとは、1個の大きな星が5個の星を側に率いた、つまり富士重工業という大きな会社が分割した5つの会社を統合した姿に例えてつけた社名と言われています。
日産自動車
日産自動車は、戦前からあった会社です。中島飛行機から分かれた富士精密工業は、プリンス自動車工業と合併し、その後日産自動車に吸収合併され、現在の日産になりました。
日産自動車のスカイラインは、中島飛行機が育てた優れたエンジニアの技術が生かされています。
富士精密工業
富士精密工業は、中島飛行機から企業解体されてできた会社です。後にプリンス自動車工業と合併しますが、富士精密工業の株主の興行銀行は、当時の日本の自動車産業の業績が思わしくなかったことから、自動車産業に反対していました。
石橋正二郎(ブリヂストン)が、後押しをして興業銀行から株式を買い取ると、富士精密工業は自動車産業へ参入していきました。石橋正二郎は、富士精密工業の会長となります。
プリンス自動車工業
プリンス自動車工業は、立川飛行機株式会社を前身としています。敗戦後、飛行機の製造が禁止されたことから、技術者の外山保や田中次郎らが、初めは東京電気自動車という社名で発足しました。しかし、その後ガソリン自動車メーカーに変更となりました。
東京電気自動車は、たま電気自動車、たま自動車、プリンス自動車工業と社名を変更し、富士精密工業と合併してからは富士精密工業となりました。
日産自動車と合併
プリンス自動車工業株式会社は、富士精密工業と合併しますが、その後も日産自動車株式会社に吸収される形で合併しました。
プリンス自動車工業株式会社の高い技術力は、日産自動車株式会社の中に生かされ、新たな技術開発へと繋がって行きました。
日本自動車産業の礎となった歴史を知ろう!
日本自動車産業の礎(いしずえ)となった中島飛行機には、今回ご紹介しきれなかった秘話も多く、戦後の解体や合併はかなり複雑で分かりにくい点があります。
現在、わたしたちが便利に使っている車ですが、ここに至るまでには想像できないほどの失敗や苦労があったと言えるでしょう。中島飛行機の創設者であった中島知久平の伝記なども出版されているので、興味があればもっと詳しく調べてみましょう。
日本の工業を発展させた優秀なエンジニアたち!
日本の自動車産業の発展に、後に大きく貢献した技術者や経営者は、飛行機の制作から始まったというストーリーがありました。
そのストーリーを、中島飛行機の歴史から辿ってみましたが、関わった全ての人たちそれぞれの物語が現代に繋がったと言えます。
中島飛行機の創設者の中島知久平は、農家の生まれで中学へ行くことも許されず、進学にも生活にも相当苦労しました。苦労人ゆえか、元来の性格か、非常に人情深い人物だったと言い伝えられています。
私たちが道に迷った時、さまざまな歴史や人物を学ぶことで、これからの道しるべが見つかるのではないでしょうか。
初回公開日:2018年11月22日
記載されている内容は2018年11月22日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。
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